~ただいま編集中~
いましばらくお待ちください。
2015年9月9日(木)~12日(日)
サインアートプロジェクト.アジアン創立10周年公演
【残夏-1945-】
無事東京公演が終演しました。
next
広島公演
長崎公演
いましばらくお待ちください。
2015年9月9日(木)~12日(日)
サインアートプロジェクト.アジアン創立10周年公演
【残夏-1945-】
無事東京公演が終演しました。
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広島公演
長崎公演
サウンドコラボを披露してから、初舞台へのお誘いが舞い込んできました。
~音楽と手話との共演~
歌に合わせて手話をする人たちはたくさんいるけれど、今まで私が見たり聴いてきた【手話歌】は、なんかピンと来なくて違和感を感じていました。
もちろん素晴らしい手話表現者はたくさんいるのですが…
手話は手で話す言葉。
意思を伝える大事な手段です。
手で話すと言ってももちろん手だけを切り取って形があれば伝わるものではなく、強弱・動く速さ・顔の表情・体の動きで幾重にも感情表現が変わります。
音声に抑揚がないと伝わらないですよね?
それと同じように手話にも抑揚があるわけです。
歌詞を手話単語に変換しただけだと、どこか味気ない。
そう感じていた時、シンガーソングライターのYUKARIちゃんと知り合い歌に隠れている意味を想像し独自の解釈で手話訳を作りました。
その手話表現は自分としてはスッと体の中に入り、自分の言葉として表現しやすかったのです。
借りてきた言葉は自分の中に沁みておらず、人の口を借りて話しているような感覚なので今までは味気ないと感じてたのかもしれません。
あくまでも自分で表現した時の感覚ですけれど。
言葉って受け手で「感じ方」は違いますから、何とも言えませんけどね。
そのオリジナルの手話訳を始めたことで、ライブ会場で演じさせていただくようになり、このコンサートのオファーに繋がったのです。
2015年7月9日木曜日
T&N企画主催
4時間マラソンコンサート part2に出演することになりました!
コンサートに出演すること自体、新しい境地なのに会場はなんとなんと
東京都中央区日本橋室町にある三越本店の6階歴史ある三越劇場でした。
お江戸日本橋からスペインへ
音楽と絵で世界を走るフルコースをご一緒に!
子供の頃から馴染のある日本の歌からはじまり、沖縄・アジアンテイスト、フランス・イタリア・スペインと繋がっていきます。
私は始めの挨拶を手話通訳し、第3部のカンツォーネで出演です。
若手音楽家水野亜歴さんとコラボ。
✿Core 'ngrato (Catari, catari)✿
✿'O sole mio✿
2曲を演じることになりました。
カンツォーネ:イタリア音楽
ナポリ語で歌うこの2曲
日本語訳になっている歌詞とナポリ語・イタリア語の単語を調べ
登場する人物像を想像します。
共に男女の恋心を歌ったもので、イタリア男性の情熱的な色気が伝わってきます。
ナポリ語は調べるのが困難で、ほとんど調べることができませんでした。
イタリア語の単語で意味を調べ、YouTubeで何度も何度も歌を聴きイメージを作っていきました。
手話訳ができあがると、今度は当日歌う水野さんの歌声に合わせた表現に変えていきます。
そして作り上げた手話パフォーマンスを三越劇場で披露。
自主稽古中は聾俳優である(個人的に師匠と崇めている)知人に表現を見てもらい、『僕は演じるのに100回は自主練するよ!』という言葉を貰い真似て練習して本番に臨みました。
自信を持って舞台に上がろう。
当日は出番が来るまで、舞台袖で観客席を眺め何度もシュミレーションして感情を合わせていきました。
そして本番
舞台に立ちライトが当たる。
手話通訳の時とは全く違う強く熱いライトが私に当たる。
なんとも言えぬ心地よさだろう。
ここで、私は私の表現をしても良いんだ。
演じるという表現は心を開放する。
自分が自分であり自分で無くなる。
粟根さんのピアノの旋律が私をイタリアへ誘い込む。
水野さんの声量が一気に会場をイタリアに変える。
あっという間の2曲。
コンサートをいくつも手掛けてきた主催ののり子さんが
『ここのライトは演劇用にできているのね。音楽コンサートの明かりとは違うわ!そして歴史ある重みを感じるライトね』っと。
そうなのか?
そうなのね。
そんな素晴らしい場所に立たせていただいているのね。
私の三越劇場は一生に一度の貴重な体験となりました。サウンドコラボで初めての舞台が三越劇場だなんて、凄過ぎる!!!
こんな素敵なオファーをくださった主催者に感謝です。
パフォーマンス後はお客様からたくさんのお言葉をいただきました。
そのなかで
『手話ってこういうのもあるのね?NHKのマルの中でやっているのが手話だと思っていたから、全然違うのね。感動したわ。』とマダム風の方々。
シャンソン歌手の取り巻きの方々は「また見たいわ!」と言ってくださいました。
そして、そのシャンソン歌手の方が『今度は私の歌にも手話を付けてほしいわ。』と言ってくださり、天にも昇るような嬉しさでいっぱいになりました。
喜んでもらえたんだ。
その実感を胸にまた頑張ろう!と思ったのでした。
三越劇場の歴史概略
三越劇場は1927年<昭和2年>、世界初の百貨店の中にある劇場として"三越ホール"の名称で、日本橋三越本店6階にオープン。
場内は豪華な大理石仕上げと石膏彫刻の美しい文様に彩られた周壁、ステンドグラスをはめ込んだ天井、間口約12m(6間)、奥行約6m(3間)の プロセニアムアーチ(額縁)の舞台。当時の客席は1階(542席)と2階(136席)合わせて678席。現在は1階(402席)と2階(112席)の514席。
三越ホールのこけら落とし(1927年<昭和2年>4月)には、歌舞伎界から澤村 宗十郎丈(七世)、守田勘彌丈(十四世)ほかが出演。戦前は主に邦楽の温習会、舞踊会、コンサート、講演会等高級社交場であった。戦争中は一時閉鎖され、戦後文化国家建設の一翼として、芸能文化向上の力となるべく、1946年<昭利21年>11月22日より再開、焼失を免れた東劇や帝国劇場とともに戦後の演劇復興の一端を担う。同年12月には、中村吉右衛門一座よる歌舞伎を上演、この時から名称も三越ホールから“三越劇場”に変わりました。今も残る「三越歌舞伎」の名は、この時期歌舞伎復興を旗印に、故歌右衛門、故勘三郎、故白鸚らが三越劇場で興行を打ったところに由来する(1946~50年の間30本上演)。1949年<昭和24年>から三和会による文楽、1951年<昭和26年>頃から、俳優座、文学座、劇団民藝による新劇も続々と上演され、戦後の芸術、大衆娯楽の復興に大きな役割を果した。1975年<昭和50年>演劇公演の劇場として再発足、数々の名舞台を誕生させ、今日まで芸術文化向上のために活用されている。
ー三越劇場オンラインから抜粋ー三越劇場
~音楽と手話との共演~
歌に合わせて手話をする人たちはたくさんいるけれど、今まで私が見たり聴いてきた【手話歌】は、なんかピンと来なくて違和感を感じていました。
もちろん素晴らしい手話表現者はたくさんいるのですが…
手話は手で話す言葉。
意思を伝える大事な手段です。
手で話すと言ってももちろん手だけを切り取って形があれば伝わるものではなく、強弱・動く速さ・顔の表情・体の動きで幾重にも感情表現が変わります。
音声に抑揚がないと伝わらないですよね?
それと同じように手話にも抑揚があるわけです。
歌詞を手話単語に変換しただけだと、どこか味気ない。
そう感じていた時、シンガーソングライターのYUKARIちゃんと知り合い歌に隠れている意味を想像し独自の解釈で手話訳を作りました。
その手話表現は自分としてはスッと体の中に入り、自分の言葉として表現しやすかったのです。
借りてきた言葉は自分の中に沁みておらず、人の口を借りて話しているような感覚なので今までは味気ないと感じてたのかもしれません。
あくまでも自分で表現した時の感覚ですけれど。
言葉って受け手で「感じ方」は違いますから、何とも言えませんけどね。
そのオリジナルの手話訳を始めたことで、ライブ会場で演じさせていただくようになり、このコンサートのオファーに繋がったのです。
2015年7月9日木曜日
T&N企画主催
4時間マラソンコンサート part2に出演することになりました!
コンサートに出演すること自体、新しい境地なのに会場はなんとなんと
東京都中央区日本橋室町にある三越本店の6階歴史ある三越劇場でした。
お江戸日本橋からスペインへ
音楽と絵で世界を走るフルコースをご一緒に!
子供の頃から馴染のある日本の歌からはじまり、沖縄・アジアンテイスト、フランス・イタリア・スペインと繋がっていきます。
私は始めの挨拶を手話通訳し、第3部のカンツォーネで出演です。
若手音楽家水野亜歴さんとコラボ。
✿Core 'ngrato (Catari, catari)✿
✿'O sole mio✿
2曲を演じることになりました。
カンツォーネ:イタリア音楽
ナポリ語で歌うこの2曲
日本語訳になっている歌詞とナポリ語・イタリア語の単語を調べ
登場する人物像を想像します。
共に男女の恋心を歌ったもので、イタリア男性の情熱的な色気が伝わってきます。
ナポリ語は調べるのが困難で、ほとんど調べることができませんでした。
イタリア語の単語で意味を調べ、YouTubeで何度も何度も歌を聴きイメージを作っていきました。
手話訳ができあがると、今度は当日歌う水野さんの歌声に合わせた表現に変えていきます。
そして作り上げた手話パフォーマンスを三越劇場で披露。
自主稽古中は聾俳優である(個人的に師匠と崇めている)知人に表現を見てもらい、『僕は演じるのに100回は自主練するよ!』という言葉を貰い真似て練習して本番に臨みました。
自信を持って舞台に上がろう。
当日は出番が来るまで、舞台袖で観客席を眺め何度もシュミレーションして感情を合わせていきました。
そして本番
舞台に立ちライトが当たる。
手話通訳の時とは全く違う強く熱いライトが私に当たる。
なんとも言えぬ心地よさだろう。
ここで、私は私の表現をしても良いんだ。
演じるという表現は心を開放する。
自分が自分であり自分で無くなる。
粟根さんのピアノの旋律が私をイタリアへ誘い込む。
水野さんの声量が一気に会場をイタリアに変える。
あっという間の2曲。
コンサートをいくつも手掛けてきた主催ののり子さんが
『ここのライトは演劇用にできているのね。音楽コンサートの明かりとは違うわ!そして歴史ある重みを感じるライトね』っと。
そうなのか?
そうなのね。
そんな素晴らしい場所に立たせていただいているのね。
私の三越劇場は一生に一度の貴重な体験となりました。サウンドコラボで初めての舞台が三越劇場だなんて、凄過ぎる!!!
こんな素敵なオファーをくださった主催者に感謝です。
パフォーマンス後はお客様からたくさんのお言葉をいただきました。
そのなかで
『手話ってこういうのもあるのね?NHKのマルの中でやっているのが手話だと思っていたから、全然違うのね。感動したわ。』とマダム風の方々。
シャンソン歌手の取り巻きの方々は「また見たいわ!」と言ってくださいました。
そして、そのシャンソン歌手の方が『今度は私の歌にも手話を付けてほしいわ。』と言ってくださり、天にも昇るような嬉しさでいっぱいになりました。
喜んでもらえたんだ。
その実感を胸にまた頑張ろう!と思ったのでした。
三越劇場の歴史概略
三越劇場は1927年<昭和2年>、世界初の百貨店の中にある劇場として"三越ホール"の名称で、日本橋三越本店6階にオープン。
場内は豪華な大理石仕上げと石膏彫刻の美しい文様に彩られた周壁、ステンドグラスをはめ込んだ天井、間口約12m(6間)、奥行約6m(3間)の プロセニアムアーチ(額縁)の舞台。当時の客席は1階(542席)と2階(136席)合わせて678席。現在は1階(402席)と2階(112席)の514席。
三越ホールのこけら落とし(1927年<昭和2年>4月)には、歌舞伎界から澤村 宗十郎丈(七世)、守田勘彌丈(十四世)ほかが出演。戦前は主に邦楽の温習会、舞踊会、コンサート、講演会等高級社交場であった。戦争中は一時閉鎖され、戦後文化国家建設の一翼として、芸能文化向上の力となるべく、1946年<昭利21年>11月22日より再開、焼失を免れた東劇や帝国劇場とともに戦後の演劇復興の一端を担う。同年12月には、中村吉右衛門一座よる歌舞伎を上演、この時から名称も三越ホールから“三越劇場”に変わりました。今も残る「三越歌舞伎」の名は、この時期歌舞伎復興を旗印に、故歌右衛門、故勘三郎、故白鸚らが三越劇場で興行を打ったところに由来する(1946~50年の間30本上演)。1949年<昭和24年>から三和会による文楽、1951年<昭和26年>頃から、俳優座、文学座、劇団民藝による新劇も続々と上演され、戦後の芸術、大衆娯楽の復興に大きな役割を果した。1975年<昭和50年>演劇公演の劇場として再発足、数々の名舞台を誕生させ、今日まで芸術文化向上のために活用されている。
ー三越劇場オンラインから抜粋ー三越劇場